島村卯月の心情が読み取りにくいたった二つの簡単な理由――アニメ『シンデレラガールズ』雑考察――
はじめに
シンデレラガールズ22話を経て、「島村卯月の心情がようわからん」という声をたまに見かけます。もしかしたらそれ以前からかもしれませんけれど。
今回の記事はそれに関して作品から読み取って考察する……というよりはもしかして文脈を勘違いしてるんじゃないの、ひょっとすると制作サイドが意図的にわからなくしてんじゃないの、と二つにわけて簡単に説明を試みようというものです。
結論を先取りすると、どうなるか考えていこうな! という身もふたもないものになるのですが、お読みいただければ幸いです。
① 文脈の相違――少女漫画の文脈から
ではまず文脈の相違があるのではないかという話から。下記インタビューを参考にしながら考えていきます。
このインタビューで鳥羽P*1の言及が印象深いのですが……
『シンデレラガールズ』と『アイドルマスター』の差別化を図るとなると、アニメ『アイドルマスター』は例えていうなら少年マンガ的なんだと思います。対して『シンデレラガールズ』でやっていることは、かなり少女マンガ的なんですよ。
と、アイドルマスターを少年漫画に、シンデレラガールズは少女漫画に例えて述べています。
ストーリー全体を通して、少女漫画の王道的モチーフであるおとぎ話のシンデレラがなぞられているあたりからも明白ですね。
さらに
さらに今回は前作との違いとしてある種の女性らしさが全面に出る演出も出したいという意図があったんですよ
と述べていて、かなり明確にアイドルマスターとの差別化を図ろうとしていたことが伺えます。実際にここまでの話や演出を振り返ると、例えば画面に花が入るレイアウトやキャラクターの距離感など、女性らしいものになっていますしね。
そしてここが問題じゃないかというのが①の問題意識。
実はかなりの割合で少女漫画的な文脈を読めない人がいるのではないでしょうか。
やはりアイマスのライブなんかに行くと実感しますが、女性のファンも増えてきているとはいえ、ファン層の(つまり視聴者層)中心は男性です。
故に少女漫画文脈だとわかりにくく、少年漫画文脈の方が理解しやすい人が多いのではないかと推測できます。
①‐2 マッドマックスの構造との類似
アイマス以外の近しい実証例としては『マッドマックス 怒りのデス・ロード』についての反応がわかりやすいかと思います。
この作品はかなり明確にフェミニズム(ジェンダーの方が適切かもしれませんが)が表れている作品で、その文脈での感想も上映後あふれていたわけですが、それでも「これは暴力的な表現を楽しむもの」「最低な暴力映画だからいい」*2といった感想も一定数ありました。ここでいう後者が少年漫画的文脈がわかるけれど、少女漫画文脈をわかりにくいと感じてしまう人に当てはまります。
ことマッドマックスに関しては監督のジョージ・ミラーは、インタビュー*3で
本作における〈フェミニズム〉はストーリー上の必然なのでであって、先に〈フェミニズム〉ありきで、そこに無理やりストーリーを付け加えて映画を作ったわけではない。〈フェミニズム〉はストーリーの構造から生まれてきたものなんだ。
とフェミニズムについて述べており、実際には暴力映画以外の視点はあるし、監督もこれは認めているんですよね。
そして、このジョージ・ミラー監督の発言は、少女漫画的文脈、つまりシンデレラガールズにも同様のことが言えます。なぜか。
マッドマックスの持っているフェミニズムの構造は簡潔に言えば、イモータン・ジョー(家父長的性格)と戦うフィリオサ(普段は男性から抑圧される女性)というもの。
対して少女漫画、特に戦う少女漫画もの*4は、旧来のシンデレラ型の少女漫画(女性らしさを磨いて待っていれば王子様が迎えに来てくれる、というような家父長制的指向)へのアンチテーゼとして描かれ、マッドマックスのもつフェミニズムの構造に類似しています。
上に引用している通り、ジョージ・ミラーは「〈フェミニズム〉はストーリーの構造から生まれてきた」と言っていますが、少女漫画に関してもフェミニズムを意図的に取り入れたというよりは、自然とその文脈から生まれてきたものと言えるでしょう。*5
そうしたことを踏まえると、マッドマックスのフェミニズム構造が一定数の映画鑑賞者から理解されなかったように、少女漫画の文脈が――シンデレラガールズの少女漫画的な部分が――理解しにくかったとしても不思議はありません。
② 意図的な空白――考察を前提とした物語構造
さて①では少女漫画的文脈が理解を妨げていると述べました。②では文脈云々ではなく、そもそも島村卯月の心情は全話みないと解けない謎なのだ、という話です。
ここではまた別のインタビューを参考に考えていきます。
上記の記事の終盤、石原D*6の発言を引用したいと思います。
僕は“アニメの楽しみ方”は、もう“1人で楽しむ”ものではないと思っています。アニメは放送開始後、その感想をTwitterで書き込んだり、学校で友達と話をしたり、共有体験をニコニコ動画のコメントという形で感じたりと“皆で楽しむもの”へと変化してきていると思います。
かつて『セカイ系とは何か』のなかで前島賢がモンスターハンターなどのコミュニケーションが主体のゲームを挙げ、物語(ゲーム内のストーリー重視)からコミュニケーション(対面通信や協力プレイ)重視への移行という問題提起をしていたが、シンデレラガールズではその両立をアニメで行おうと考えているのだと思われます。
そういった狙いがあるからこそ、アニメ視聴を通したコミュニケーションを増進させるためにある程度の謎を残しているのではないか、というのが②の主張なのです。
実際にはわからない、というのがある種不満点として挙げられているため悪影響にもなってはいるんだけれど、他方で着実にツイッターやその他媒体で考察がされていたり実況がされていたりと盛り上がっているのは確かですしね。統計的データとかはありませんががが。
そして、その謎の作品で一番大きな部分が、島村卯月というある意味では主人公(とはいえ全員主役が2ndシーズンのテーマではあるのだが)の心情であるのではないでしょうか。
……とはいえ、実は最後までわからない謎もあるんじゃないかという疑念も確かにあるわけですが、①で挙げたインタビューで
──その点では、先ほどのお話のとおり『シンデレラガールズ』には少女マンガのような繊細さを感じますね。
鳥羽:高雄監督は女の子のキャラクター描写に対して、ものすごく練り込まれる人で、その子の思考とか結論に至るプロセスを理解して消化しないと描かれないんですよ。そのぶん時間はかかりますが、できあがったものに対する説得力はどのフィルムよりも強いですね。
こういったやりとりがある通り、少なくとも島村卯月の心情に関してはきちんと練り込まれているし、きちんと物語として示してくれるのではないかと私は思っています。
おわりに
結論としてははじめにで言った通り、みんなどうなるか考えていこうな! という感じです。
②で言った通り、謎は提示されており、そしておそらく答えも出るでしょうから、考察でも感想でも実況でもなんでもいいからやるといいんじゃないかしら、と。少しでもデレマスひいてはアイマスが盛り上がればいいなと一ファンとしては思います。