歯痛がひどいblog

とくに歯痛については書きませんが日々歯痛に悩まされる人が書いているブログです。たぶんアニメとか読んだ本の感想が中心になってくると思います。

「性的消費」という概念は、ある人にとって徹底的に無価値である。

①話題の(たぶん)togetter

togetter.com

②けっこうまえに話題になったtogetter

togetter.com

 

なんだか最近”性的消費”という話がちょこちょこでてきていたので。

以前話題になった萌え絵はおちんちんという話と絡めてそこらへんについて述べてみようかなと。

 

 

①の記事について、1頁あたりにある連ツイ。

性的消費の表明、ということ

性的消費が批判的に用いられるときに問題としているのが、その性的消費の”表明”であり、君の頭のなかで楽しむだけなら批判しない、という姿勢は正直理解できるし、多分多くの人は理解しているのだと思う。

でもわからないところは、「君の頭のなかで楽しむ」、そして「表明する」というところの範囲なんじゃないだろうか。

 

例えばあるオタク(便宜上オタクと表す、アニメ好きとかでも構わない)携帯の待ち受け画面をラブライブ!BDの一巻の画像にしたとしよう。

 

基本的にそれは彼にとって性的商品ではないし、ただ好きなアニメの主役の画像に過ぎない。その画像に性的な視線など注いでいないだろう。*1

と、オタクは思っている。だとしたらその時点でオタクによってはその画像は性的には消費されているわけではない。

 

でもそれを萌え絵はおちんちんだと思う人*2からすると、性的消費だと判断される。陰茎をしごくさまが想像されると判断される。それは性的消費を表明していると判断される。

 

性的消費と判断された先

そこでの問題は、そのオタクと萌え絵はおちんちん派との価値判断の差なんだろうと思う。しかしどちらが正しいのかの合意形成は難しいだろう。

でその行き着く先は、例えばテレビ等での不適切な表現が自然に淘汰されていくという論理。

確かに人びとの意識の変化による淘汰を期待するのは方法としてはありだと思うけども、性的消費に関して言えば言葉狩りに近いものになっている気がする。

 

例えば、前述のラブライブというコンテンツからすれば、確かにそのオタクは待ち受け画像の”キャラクター”で、成人指定の同人誌などで性的消費、あるいは自慰行為を行っていたことがあったとする。

そしてその待ち受け画像をみて、「それは性的消費ですよ」という批判的な意見表明がオタクに行われたとして、そこで明確な反論が出来る人はそういないのではないだろうか。確かにそのキャラクターで性的消費を行ったのは事実であるからだ。

でもそれはキャラクターであって、かつそれを衆人環視の元でおこなったわけではない。彼は自慰行為を表明したわけではない。

待ち受け画像とは無縁の事象である。それを萌え絵というだけで性的消費とする根拠には成り得ない。

 

例えば、異性なり同性なりをみているとき、「それは性的消費ですよ」と言われた時に即断して否定出来る人がいるだろうか。仮に他人で性的消費を行った人間は、想像するにその視線ですら性的消費になるのではないだろうか。

それが結果的に性的消費として淘汰されないのは、それが淘汰されないほど人びとの意識のなかで多数だからである。

逆に萌え絵とかそういったものに関して言えばそれほど多数ではない。むしろ少数だ。むろん、人びとの意識がそれを許容する方に修正されれば、おそらくは許容へ収束するのだろうけれど。

 

価値判断についての相互理解 

「これは性的消費ではない」と、そうでなくても「それは表明されたものでない」、と主張したところで他人の意見により潰されるかのような不安。その運動の波。

そもそもそこに問題があるのではないか。

だからこの概念は共感を得られず、使用する側は理解されないことを嘆き見下し、使用された側はそれを理解せず鬱陶しく思い見下し合う。

 

ではなにが必要なのか。

本来であれば価値判断の定義について、相互理解による定義が必要なのだろう。

性的消費という概念を使用する側は少なくとも、自分がどういう価値判断でそれを性的消費としてみなしたのか、表明としてみなしたのかを提示することなしに相互理解は成り立たないだろう。その点においては②の記事はある種正しい。認められるかというのは置いておいても。

 

ただここで問題となってくるのが、要は人々の意識の変化次第であろうと、言葉の使用者が*3言ってのけてしまうことだ。その定義を曖昧に、主観によるものに委ね、その主張が社会により収斂されるのを待つ。

つまり使用者が自ら定義を放棄している。これでは相互理解など成り立たない。

 

性的消費という透明な言葉

現状、その言葉を使用する側の人間が、人びとの意識の変化次第でその定義がなされるとして考えている以上は、この問題について言及することはただ無価値であると、受け取る側に取られても致し方ないし、言葉自体も彼ら以外には無意味で空虚で、透明なものでしかありえない。

 

*1:ラブライブに関しては②の社虫太郎という人がツイートで画像をあげていたので例示

*2:この場合は社虫太郎氏

*3:まあ一部ではあるが