「マルドゥック・スクランブル」冲方丁は黒丸尚の影響を受けているのか
問
さて、マルドゥック・アノニマスの連載が始まって、マルドゥック・ヴェロシティの漫画化が決まってということでマルドゥック・スクランブル及びに冲方丁のwikipediaをぱらぱらっとみていたのですが、気になる記述を見かけました。
サイバーパンクを強く意識した作品で、黒丸尚によるウィリアム・ギブソン作品の翻訳文体を取り入れている。古典SF作品を彷彿とさせるシーンも多い。登場する人物の名前は卵がモチーフである
とあり、
SF界隈での評価を高めた『マルドゥック・スクランブル』は黒丸尚による翻訳作品を意識した文体が用いられており、とりわけ終盤のギャンブルシーンの描写は絶賛されている。一方、前日譚である『マルドゥック・ヴェロシティ』では、記号の「/」や「=」を用いた「クランチ文体」が使用されており、異常な人格・おどろおどろしい風体を持ったサイボーグによる能力バトルが繰り広げられるというジェイムズ・エルロイや山田風太郎を意識したものとなっている。
とあります。
いずれのマルドゥック・スクランブルについての記載には
冲方丁のマルドゥック・スクランブルは、黒丸尚による翻訳文体を意識している。
という共通点があります。
たぶん同じ人が書いたのだと思うのですが、これは本当なのでしょうか。
反論
これには冲方丁本人が、インタビューにて以下のような回答を行っています。
――冲方さんの作品は、サイバーパンク系のSFとも言われると思うのですが。
冲方:そう言われて、あ、そうなんだ、と思って、サイバーパンクの代表的な作品であるウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』も読んだのですが、何が言いたいのかさっぱり分からなくて。ここらへんが似ているんだろうなと思う部分もあったんですが、とにかく文章が、昔自分が頑張って日本語訳したものを思い出して心が痛くて(笑)。SFのジャンルがどうのといったこととはまったく違うところで痛みを感じてしまうので、あれは読めないんです。
第99回:冲方丁さんその5「4つの媒体を経験」 - 作家の読書道 | WEB本の雑誌
言葉通り読めば翻訳文体を取り入れたというよりは、ただ単に冲方丁と黒丸尚の文体が似ているだけと考えるのが自然だと思います。
なんで誤解が生まれたのか
このインタビューやその他インタビュー、言わずもがなwikipediaにも書いてあることですが、11~13歳のころまでほとんどを海外で過ごしたという経験、そして日本語に翻訳されたものを書き写す・自分で翻訳するといった経験からそこに至ったという感じなのでしょう。
翻訳文体っぽいのは確かかなと。(以下参照)
サイバーパンクという言葉は知っていたのですが、具体的にどういうものなのか分かっていませんでした。『マルドゥック』がSF大賞を受賞してのち、初めて、ああ、こういうのがサイバーパンクかと理解しました。
「凝り性(アーティスト)」とかいった表現も、サイバーパンクの何それの踏襲だろうと、よく言われるんですが、それもよく分かってなかったです。単に海外で思春期を過ごしたせいで、言語感覚が二重というか、英語と日本語が混ざって思考してるだけでして…。
ただ検索してばばっとみてみると、SFを好んで読んでいる人にとっては翻訳文体(を感じさせる文章)自体がわりとギブソン(と翻訳の黒丸尚)を連想させるようで、多くの媒体で関連性を持たせて記述しているものが見られました。
締めとして
そこらへんが
冲方丁のマルドゥック・スクランブルは、黒丸尚による翻訳文体を意識している。
となった原因なのかなと思います。
とはいえ、どこかに出典があるかもしれないので確実には言えませんが……。
ただし、wikipediaの方には出典表記がなかったのでおそらく間違いないんじゃないかと。
教訓
・あんまりwikipediaを参考にしすぎない
・出典を確認しよう
・冲方丁のインタビューを読もう
というわけで以上です。
黒丸尚の影響を受けているという出典をご存知の方、かなり知りたいので教えていただけると嬉しいです。
あと冲方先生のインタビューはどれも面白いのでオススメです!
「性的消費」という概念は、ある人にとって徹底的に無価値である。
①話題の(たぶん)togetter。
②けっこうまえに話題になったtogetter。
なんだか最近”性的消費”という話がちょこちょこでてきていたので。
以前話題になった萌え絵はおちんちんという話と絡めてそこらへんについて述べてみようかなと。
①頭の中で妄想することも含めて「性的消費」
②表明されたもの(消費されたことが明らかなもの)を指して 「性的消費」
どちらの意味で「性的消費」を使っていても
頭の中で妄想したり
プライベートな場所で楽しむことまで
批判してないんだよ
— 連山 (@HRenrenzan) 2015, 5月 31
①の記事について、1頁あたりにある連ツイ。
性的消費の表明、ということ
性的消費が批判的に用いられるときに問題としているのが、その性的消費の”表明”であり、君の頭のなかで楽しむだけなら批判しない、という姿勢は正直理解できるし、多分多くの人は理解しているのだと思う。
でもわからないところは、「君の頭のなかで楽しむ」、そして「表明する」というところの範囲なんじゃないだろうか。
例えばあるオタク(便宜上オタクと表す、アニメ好きとかでも構わない)携帯の待ち受け画面をラブライブ!BDの一巻の画像にしたとしよう。
基本的にそれは彼にとって性的商品ではないし、ただ好きなアニメの主役の画像に過ぎない。その画像に性的な視線など注いでいないだろう。*1
と、オタクは思っている。だとしたらその時点でオタクによってはその画像は性的には消費されているわけではない。
でもそれを萌え絵はおちんちんだと思う人*2からすると、性的消費だと判断される。陰茎をしごくさまが想像されると判断される。それは性的消費を表明していると判断される。
性的消費と判断された先
そこでの問題は、そのオタクと萌え絵はおちんちん派との価値判断の差なんだろうと思う。しかしどちらが正しいのかの合意形成は難しいだろう。
でその行き着く先は、例えばテレビ等での不適切な表現が自然に淘汰されていくという論理。
@go_philospirit いやいや、それもまたひとつの極論or大上段論であって、例えばTV等での非良識的表現は別に表現の自由に抵触すると批判されることなく制限されているという事実があるので、要は人々の意識の変化次第であろうと。
— 社虫太郎 (@kabutoyama_taro) 2014, 11月 17
確かに人びとの意識の変化による淘汰を期待するのは方法としてはありだと思うけども、性的消費に関して言えば言葉狩りに近いものになっている気がする。
例えば、前述のラブライブというコンテンツからすれば、確かにそのオタクは待ち受け画像の”キャラクター”で、成人指定の同人誌などで性的消費、あるいは自慰行為を行っていたことがあったとする。
そしてその待ち受け画像をみて、「それは性的消費ですよ」という批判的な意見表明がオタクに行われたとして、そこで明確な反論が出来る人はそういないのではないだろうか。確かにそのキャラクターで性的消費を行ったのは事実であるからだ。
でもそれはキャラクターであって、かつそれを衆人環視の元でおこなったわけではない。彼は自慰行為を表明したわけではない。
待ち受け画像とは無縁の事象である。それを萌え絵というだけで性的消費とする根拠には成り得ない。
例えば、異性なり同性なりをみているとき、「それは性的消費ですよ」と言われた時に即断して否定出来る人がいるだろうか。仮に他人で性的消費を行った人間は、想像するにその視線ですら性的消費になるのではないだろうか。
それが結果的に性的消費として淘汰されないのは、それが淘汰されないほど人びとの意識のなかで多数だからである。
逆に萌え絵とかそういったものに関して言えばそれほど多数ではない。むしろ少数だ。むろん、人びとの意識がそれを許容する方に修正されれば、おそらくは許容へ収束するのだろうけれど。
価値判断についての相互理解
「これは性的消費ではない」と、そうでなくても「それは表明されたものでない」、と主張したところで他人の意見により潰されるかのような不安。その運動の波。
そもそもそこに問題があるのではないか。
だからこの概念は共感を得られず、使用する側は理解されないことを嘆き見下し、使用された側はそれを理解せず鬱陶しく思い見下し合う。
ではなにが必要なのか。
本来であれば価値判断の定義について、相互理解による定義が必要なのだろう。
性的消費という概念を使用する側は少なくとも、自分がどういう価値判断でそれを性的消費としてみなしたのか、表明としてみなしたのかを提示することなしに相互理解は成り立たないだろう。その点においては②の記事はある種正しい。認められるかというのは置いておいても。
ただここで問題となってくるのが、要は人々の意識の変化次第であろうと、言葉の使用者が*3言ってのけてしまうことだ。その定義を曖昧に、主観によるものに委ね、その主張が社会により収斂されるのを待つ。
つまり使用者が自ら定義を放棄している。これでは相互理解など成り立たない。
性的消費という透明な言葉
現状、その言葉を使用する側の人間が、人びとの意識の変化次第でその定義がなされるとして考えている以上は、この問題について言及することはただ無価値であると、受け取る側に取られても致し方ないし、言葉自体も彼ら以外には無意味で空虚で、透明なものでしかありえない。
幻想再帰のアリュージョニスト、その感想
最近(これは作者名とかけているわけではないけれど)話題の、「小説家になろう」で連載されている『幻想再帰のアリュージョニスト』を読みました。
あらすじはこんな感じ。
”異世界転生保険とは契約者本人を受取人として、保険量(インシュランス・クオンタム)である新たな人生を給付する制度である。無事支払い条件を満たしていたのはいいが、新たな世界で目を覚ますと何やら開幕から左手を怪物に食い千切られているという大惨事。おまけに原因不明のトラブルで言葉も通じないわ、現代日本の技術を異世界に持ち込んでしまうわで第二の人生は開始早々に前途多難。戦わなければ生き残れない仄暗い迷宮で、片腕を失った男は現代日本の技術を駆使して戦うことを決意する。現代日本の技術――すなわち、サイバネティクスの粋を集めた、機械義肢とサイバーカラテを。”
あらすじだけみると、サイバーパンク系SFを持ち込んだ異世界転生ものなのかなと、そんな印象を受けました。ウェブ小説にありがちな感じだなあ、とか思っていました。
話題というだけでそんなに期待せずに、糞だったら糞というつもりで読み始めました。
結果、かなり表面をなぞるように読んでも三日三晩かかりました。死ぬかと思った。
わりと生活を投げ捨てていましたが、しかしそれほど面白かった、話に引き込まれたというのも事実。というわけで以下雑文ですが感想です。
感想、あるいは好きになったところのひとつとしての「設定」
読み始めてすぐに感じたのは、異常な設定の波。というか濁流というか津波というか、兎に角、言語ひとつにもバックグラウンドが存在するかのような情報の波でした。世界観はごちゃまぜ、あらすじのサイバーパンク観と異世界を調和させ、現代思想、言語統制もろもろの設定に整合性を付けていく。
率直に「なんだこれは」と思いました。
あまりにもごった煮、芋煮、いやあんこう鍋、石狩鍋かそれとも安直に闇鍋か。既存の設定を参照にしつつ*1、かつ著者らしい設定を付与して物語として整合性を保っていくバランス感覚は計算されつくした闇鍋。
うまい闇鍋というのはほんとうに正しい闇鍋なのかとも思いますが、しかし闇鍋そのものの何が入っているかわからないという性質を維持したまま、美味しい、おもしろいと思わせるのはこの作品の肝だなと思います。
かつ面白いのは、ほとんどすべての行動や言葉に意味づけを行っているという部分。
言語ひとつとっても意味付けが独自に解釈され、意味づけされ、物語のなかで説明されます。そして意味づけが物語のなかで登場するということは、そのすべてが伏線として機能し得るのです。
少しでも読んで気になる設定があれば、基本的に物語に干渉してくるのは確定なのでぱらっと見てみるのもおすすめですね。
どの伏線が物語を牽引するのか、どの要素がいつ物語に影響を与えるのか。わからないから先が読めない、それが面白い。*2
ウェブ小説特有(?)の「ストーリー」
ストーリーの大枠としてはダークファンタジ―の王道であろうと思います。私はなんでも王道という癖があるのでなんとも言えませんが、ダブル主人公、世界を救う等々王道要素たっぷりで、ある種凡庸で、それだけであれば凡作であるともいえます。
ただ驚くべきは前述したような多岐にわたる設定、それを管理した上でそのストーリーを動かしていく能力、読者を楽しませる力です。
ある意味、ゲームに近いかもしれません。トライ&エラーのできない小説という媒体でのRPG。ただし、ゲームと違って読者による選択がない、それゆえに膨大な会話/多大なモノローグ=無数の伏線あるいは設定が盛り込まれる。
おそらくそれは、商業向けの作品では難しいものです。普通であればカットされるであろう設定群、それをふんだんに盛り込んでストーリーで形を整えていく。
それは筆者にその意思さえあれば、無限に物語を紡ぐことができるウェブ小説だからこそ、終わりが見えない、先が読めない展開を形づくれているのかなと思います。
その他雑多な感想
難点としてはヴィジュアル化しにくいということでしょうか。
ヒロイン二人がほぼほぼ人外というかほとんど人外なので、ファンアートとか生まれにくいなと。
まあトリシューラなんかはTo heartのマルチよろしく二次元キャラクターらしいデザインでもよいとは思うのですが、世界観的にどちらかといえばリアルタッチの方がおそらく好ましい、と思ってしまう作品です。
と、以上がとりあえず読後感に打ちのめされて書いた感想なのですが、いまいちなんとも言えない感じになってしまいました。ネタバレしないようにした結果あまり本筋を抑えられていないような気がします。
語るに落ちる、といった感じですね。
とはいえこれ以上書いてもさらに雑文をまき散らす結果となる予感しかしないので、こんなところで。
*1:設定はこちらを参照先とするようです ゆらぎの神話 ポータル とはいえこれらの設定をかみ砕き自らの作品に組み込むのは相当骨が折れるのは想像に難くない
*2:設定がわからなくなったーーとかいう場合には
幻想再帰のアリュージョニストWiki Wiki* を参考にして読み進めるとよさそうですね。すごく便利
まどかマギカをアート・アニメーションと述べることについての疑問
アート・アニメーション、という言葉を見かけたので調べてみるとこんな記事を見つけました。
ここで取り上げられているのは作画デザインがアートすぎるアニメたち、ということで厳密にはアート・アニメーションについてのものではありませんが、最後にまどかマギカが取り上げられています。
おや、と思いました。
メインストリームというわけではありませんが、検索してみるとちょこちょこまどかマギカをアート・アニメーションとして取り扱っている発言に行き当たります。*1
個人的な感想としてはそうだったのか……? という印象。
イヌカレー空間とか演出的なのはもちろんアート・アニメーションらしいところだとは思うんだけど、あれ結局骨の髄まで大衆向けじゃないですか。アートってそんな広範囲につけていいもんなんでしょうか。
これは私のアート(芸術)観の問題でもあるのであまり共感されないだろうとは思うですが、私のなかで関連するのは純文学と大衆文学の違いです。
純文学は芸術性に重きを置いたもの、大衆文学は娯楽性に重きを置いたものとして考えると、*2アニメで対応するのは、アート・アニメーションは芸術性に重きを置いたもので、大衆文学は商業アニメとなります。*3
例えばまどかマギカのイヌカレー空間等の参照先については明らかにアート・アニメーションだと私は判断するし、芸術性を楽しむものなのでしょう。ですが、まどマギに関して言えばイヌカレー空間や新房演出は確かに芸術性を内包するものの、ただあれはストーリー上の演出であって、娯楽性を生み出す装置の役割です。
仮に”芸術性を内包する”ということをアートとしてしまうなら、世にあるすべてのアニメは芸術性を孕んでいるだろうし、アート・アニメーションとなってしまいます。それはアート・アニメーションや純文学という定義や分類の必要性を揺るがします。*4定義のあやふやな言葉は、それ自体の価値を失墜させます。それを望ましいことだとは思いません。
個人的な意見とすれば、その作品の芸術性というのは、その作品の作られた目的から定義されるべきなんじゃないかと考えています。芸術作品として作られたのであれば純文学であるしアート・アニメーションと定義してよかろうと。*5またもう一つの条件としてはそれが芸術性を孕んでいると受け手から認識をされることです。両者の相互承認があり始めて成立するのではないかと。
だから、まどかマギカはアート・アニメーション足り得ません。あれの本質がアートであるとは思いませんし、私はあれを芸術とは思いません。けれどあれが製作者サイドからまどかマギカという作品は芸術であるという意思表明があるならば芸術であると認識を改めましょう。というのが結論。
とはいえ、この記事自体は例えば多くのアート・アニメーションとしての言説ではなく、ふわふわしたその語感から意味を付与されたアート・アニメーションの言説をぶん殴るためのものです。*6
そもそも、アート・アニメーションという言葉はそもそも定義自体があやふやなのでなんとも言及しにくいものですが、あえてそこを切り取ってぶん殴っている記事だと把握していただければというのが言い訳。
ただアニメを商業的でない意味で、なんらかの表現を用いて評価し救い上げるという行為自体には個人的には賛同したいところではあります。しかしアートという言葉で(手軽に、簡単に)述べてしまうのは違うだろうのが感覚的なところです。
『アダム・スミス-『道徳的感情論』と『国富論』の世界』 - 堂目卓生
「最近おもしろかった本」というお題に沿って(まあ実際はそういう意図で書いていませんが)、本の紹介。タイトルの通りアダムスミスについての新書です。
アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)
- 作者: 堂目卓生
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2008/03
- メディア: 新書
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さて、アダム・スミスという名前からどういった人物像をイメージするでしょうか。
彼に対しての通説的な見方は、「市場万能主義の守護神」だとか、市場経済において、各個人が利益追求行動が市場メカニズムが調整機能を通じて社会全体の幸福につながるという「神の見えざる手」といった考え方を提唱した人物、「経済学の父」といったところなのかなと思います。翻って自らの利益のみを追求する合理的な経済人間というモデルも、彼によって考えられたという先入観もあるかもしれません。
事実、私もそう考えていました。
ですが、この『アダム・スミス-『道徳的感情論』と『国富論』の世界』はそういった彼に対する上記のような誤解を、彼の著書である『道徳的感情論』と『国富論』を通じて解こうというものです。
――スミスは神の見えざる手という表現を国富論で使用していなかった。私にとってまずこの点が衝撃ででした。
確かにスミスは、市場の価格調整メカニズムを通じて、公共の利益を促進すると考えていました。しかし、市場が公共の利益を促進するためには、市場参加者個人の利己心だけでなく、フェアプレーの精神が不可欠だと彼は考えていたのです。道徳的感情論において徳の道と財産の道への追求と関連付けされて述べられており、財産の道を追求しすぎれば社会秩序は崩壊するのだとスミスは述べていたそうなのです(詳しくは本著を読んで確認していただければ)。
つまり古典経済学の祖であるアダム・スミスが想定していた人間というのは、合理的な経済人間というモデルではなく、社会性のある人間でした。
ではなぜ今(といっても2008年の図書ではあるが)、アダム・スミスが注目されたのでしょうか。
それは著者のあとがきにて若干述べられている、行動経済学という学問分野にあります。2002年にダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞したことで注目され始めたのが行動経済学です。行動経済学は、古典経済学の合理的な経済人間というモデルを見直し、実験的手法やアンケート調査を通じて、より実際の人間行動に近い仮定を打ち立てようという分野です。
著者の言うとおり、経験と観察を通じて行動仮説を立てる点・人間を社会的存在としてとらえ、感情や慣習の影響を重視する点において、アダム・スミスの方法や考え方に近いといえる、のです。
経済学の古典から、現代の新しい経済学への道を読み解く、「今」読む価値のある一冊だと私は思いました。
アイドルマスターシンデレラガールズ6話感想ー島村卯月をストーキングするー
・はじめに
アイドルマスターシンデレラガールズ6話について今更並の感想です。記事自体は6話放送当時に別所にて公開しました。
6話は簡単に言えば挫折回であり、3話の美嘉のライブで魔法をかけられた(成功体験を受けた)NGsが、その魔法から覚める(失敗をする)という回。
これまで思うところはあったものの特にブログを書こうとかは思わなかったのですが、6話に関してはいまいち島村卯月先生に視点を当てた感想がなく、もやもやしていたのでそれならば自分で書こう、ストーキングするのだ! と思った次第です。
・何故島村をストーキングするのか。
基本的にこの回の主役は、本田未央でしょう。彼女がニュージェネのリーダーとしてユニットを引っ張っていく様子が何度も描かれますし、最終盤に3話のライブとのギャップに一番苦しむのも彼女です。故にもはや感想が出尽くしているという印象もありますし、わざわざ記事にしなくても良いかなと判断しました。
どちらかというと私が今回の話で気になったのは卯月の方でした。ニュージェネに対照的に描かれたのはラブライカだった(第一歩を確実に踏み出した➤素直に喜ぶ)と思いますが、しかしニュージェネの中でも卯月はどちらかというとラブライカに近い位置づけにあったのではないかと思います。またところどころ表情がクローズアップされますがその表情が印象的だったのでそこらへんを考えてみたいなと思いました。
そのため本記事では普通の女の子としての島村さん、その自己主張のなさ、6話での問題点、そしてこれからという形で進めていきます。
・島村さんは普通の女の子である。
そもそも”島村さんは普通の女の子”です。
ダンスの練習に遅れ気味なのも、ある意味当然だと言えます。確かに美嘉のバックダンサーとして役目を果たすことができた、とはいえ彼女はまだアイドルになったばかりの新人なのです。それもシンデレラプロジェクトの他のメンバーよりも遅くに。
未央・凛と比べると基礎的な能力が幾分劣っているような描写がありますが、どちらかといえばこれまできちんとしたレッスンを受けてきていないにも関わらず、3話のダンスや今回のライブを成功させるだけの才覚や能力があるこの2人が常人離れしているだけと考えた方が妥当でしょう。現に6話では個人練習をしている描写があるのが卯月だけになってしまいました。ただ努力して、成功させたのが普通の女の子たる彼女なのです。
・3話と関連して。
その意味で3話での「まだ早いんじゃないか」という武内Pの指摘は当たっていました。特に能力的なことを言えば卯月にとってデビューは早かったのです。なぜなら彼女は才能や能力で言えば”普通の女の子”だからです。また3話から繋がるところであるとすれば、衣裳部屋での「これって冬のライブの……!」一言。ほかの2人にしてもライブ会場にいたような描写はあるものの、以前のライブに関して関心を持っていたような描写はありません(ニュージェネでは)。
・問題点、卯月の自己主張の少なさ。
依存、というと言葉がきついかもしれません。ただ徹底的に受け身の姿勢なのは確かです。
アイドルになるという1話、凛を動かすのは彼女ですが、彼女自身がアイドルになれたのはどちらかといえば武内Pが顔を知っていたから。おそらく彼女の顔を楽屋にあいさつに来た時に見ていたということでしょうか。そして2話、自分から引っ張ろうとするものの、レッスンで一人だけミスをしてしまいます。3話では先輩への挨拶、最後の部分などある程度主体性がありますが、ライブ前等ではむしろ凛が引っ張る場面が多い、というより未央や凛を頼る(見方によっては縋るような)ことが多いですね。
全話に登場し、出演シーンも多い彼女ですが、意外と自分の意見を主張したり、自分から行動したりすることは少ないように思います。たぶん穿ちすぎな気はしますが、1話で私は何をすれば! と武内Pに聞いているシーン等も当てはまります。私もああいう風に輝きたい、という漠然とした目標はあるけれど、明確な目標は未央のように持てない。能力も初心者の凛に負けている。そういったコンプレックスがあるのかもしれません。
・島村さんの他者への過剰な共感、依存。
顕著に表れたのが6話なのかなと。今回の話で彼女は、インタビューもダンスもラジオも、ライブ前ですら、他の2人の力があったからこそ乗り越えることができました。だからこそ主体性の持った行動ができない、行動や意見に関して他者に共感し、依存してしまう。
恐らく6話のライブの失敗において、未央と凛と異なるのはここです。彼女は美嘉のライブの成功経験から勘違いしてしまっているのではありません。彼女がデビューライブで美嘉のような舞台を無意識に想定することはないでしょう(恐らくアイドルがデビューしていく様子も養成所時代にみているのではないでしょうか)。規模を勘違いしてしまった未央、そしてその未央に励まされたことから未央に共感、依存してしまった。ただ未央の勘違いが解け、調子を崩してしまったために、未央に依存していた卯月の失敗を誘因となったのではないでしょうか。
・ラブライカとの共通点、普通のアイドルとしての卯月。
ただし、卯月のその他者への共感という面に関しては悪い面とは言えません。彼女は共感というならニュージェネ以外にもにもしているからです。5話にみくにも、6話で言えばラブライカにも。ライブへの意気込みも、緊張もラブライカと共有し共感しています。武内Pの「第一歩です」――その言葉を言葉通り受け止め、3話の成功経験があったにもかかわらず、このライブでアイドルとしての一歩を踏み出そうとしていました。そういった意味で、どちらかといえば新人アイドルとしてのラブライカと共通点が多かったのが卯月なのかなと。主体性がないわけではなく弱いだけ、たぶんそれは普通の女の子だからなのだと思います。だから本来は階段を一歩ずつ登っていくべきだった、でも無理をしていたために依存という形になってしまった。結果としてラブライカとは対照的に、第一歩目を踏み外してしまいました。
・共感という長所、結論として。
こと卯月さんのことを言えば、現状すでに階段を一歩抜かしをして、失敗してしまっています。そのギャップをどうやって埋めるのか、またこれから一人のアイドルとしてどうなっていくのかがポイントになっていくのかなというのが問題なのかなと。
なんだか批判しているような感想になっていますが、しかし彼女は凛をアイドルにさせる程度には輝いています。それが少し弱い光だとしてもあの笑顔はとても輝いていました。共感もしますが、彼女は共感をさせる力を持っています。未央のように自分から引っ張ることはできませんが、背中を押すことはできているのです。だからこそ他者への共感を優先してしまう彼女に。未央の異変にいち早く気付き、初めに追いかけた彼女に。願わくば、未央を立ち直らせてほしいと思うのです。
・おわりに
初めにとくれば終わりにがなければ。私が何を言いたかったかというと、6話の感想でニュージェネレーションズ全員がライブの成功経験に酔っていたかのような意見が少なからずあったのが気に入らない、少なくとも卯月に関しては違うだろうということです。但し考察なのでものすごく外れているような気しかしませんが。
ブログはじめました
とくにこれといった目的はありませんが、承認欲求の解消とストレス発散をかねてブログをはじめました。
基本的にこういったことは長続きしないのですぐやめると思いますが、ご付き合いいただければと思います。
内容は
・読書感想
・アニメ感想
・漫画感想
とかになるかなと。
適当にやっていきます。